●「時代考証本の本当に凄い事」
@甲冑研究家の大家、笹間良彦先生の時代考証書籍の解説にこんな部分があった。 「長押の槍をとって即座に戦うのに、石突を床にドント叩きつけ鞘を外す……」 エッ、鞘が二つに割れて外れるのでしょうか。だとすればこれは凄い発想の転換ではありますが……?
A日本刀をエッセイ風に解説した、『鐵のある風景』において森雅裕氏は次に様に書いていました。 「辞書だって間違えていて、『寢刃』は「切れ味のにぶくなった刃』とあるが、まったく逆で、切れ味をよくするために荒目の砥石などを軽くかけることをいう。……」 あの、辞書(『大辞林』等の事と思いますが)はそれほど間違ってないと思いますよ。森氏の言っておられるのは「寢刃合わせ」の事ではないですか。「寢刃合わせ」とは刃に細かい傷をつけて切れ味を増すことと言う論がありますが、これは半分以上俗説であり、また一説でもあります。科学的には殆ど否定されていた様に思います。これには幾つかの説があり、いま一つはやはり正に刃が寝てしまったものを左右両方から起して切れ味を良くする処置という捉え方もあり、これが大体正解ではないかと思います。この論に固執はしませんが、いずれにしろ『大辞林』の説明は概ね間違っていないと思います。
A同じく森氏は、「槍の柄をスッパリと切断してうまう殺陣もよくあるが、槍の柄の中には鉄の茎が入っており、斬れるものではない。」 茎の長さは様々ですが、千段巻きの部分、蕪巻の所まで入っているものは存外少ない(茎のない袋槍もある)。そこを外せば切断も決して不可能ではない。槍術者はそれを恐れ、そこにある程度の金具を入れて補強したり、また鮫皮を巻いたりしたものものある。確かにある程度の補強にはなるが、実際的には切り切り飛ばされる事も多かった。赤穂浪士の討ち入りにおいて柄を切断されたものの絵図が残っている。刀で斬られたかは不明だが、槍も中途から折られたものもある。 また槍術者の心得として「槍折れ」と言う教えがあり、槍穂を柄から斬り飛ばされた時に残った短い柄で戦う事の教えであり、ここから棒術の技が生まれたとも言われている。
B同じく森氏本。「人道主義あふれる侍は棟(峰)打ちなんてことをサッソウとやっているが、刀は棟への衝撃には弱く、折れる危険がある。」 あの、人の肉体に峰打ちした位で折れる様な日本刀は武器として使用できません。 日本刀は峰打ちに弱いと言うのは俗説ですが、半分位はある程度正しい。ただ意味合いが違い、別の遣い方をすれば簡単に折れます。逆に言えばそこをつけば敵の刀を簡単に叩き斬る(折る)事も可能です。しかし殺害しないための棟打ちは駄目と言うのは可笑しすぎます。
C時代考証家を名乗る山田順子女史の考証本、『なぜ、江戸の庶民を時間に正確だったのか』をみましたが、大分可笑しい所があります。特に武術に対する部分は酷い。 順次書いてみましょう。 「『剣道』と言う言葉を考証させてください。この言葉が生まれたのは明治時代の事です。柔術が講道館によって『柔道』と呼ばれるようになったのを真似て、『武術』が『武道』に、『剣術』が『剣道』となり、『稽古場』も『道場』となりました。ですから江戸時代の呼び名としては『剣術』が正しいのです。」 いや、これは概ねは正しい解説とは思いますけど……。しかし厳密にはかなり厳しく不正確です。 「剣道」と言う言葉は江戸期からありましたし、ほぼ「剣術」と同じような意味で用いられました。ややニュアンスが違うかも知れませんが、やや畏まった時には「剣道」を用いた様です。書籍としては山本某の『剣道独稽古』等が著名です。「剣道」のワードを用いた武術伝書は結構存在します。 同じ様に「柔道」も講道館以前から多く用いられていました。「武道」も用いられていましたが、江戸期では慣例的には「武道」とは主に「武士道」の用法で用いられたので、混同しないように「武術」と分けて呼ばれる事が多かった様です。ただ純粋に武術の意味で武道の言葉を用いた例もあります。竹内流の伝書の中で「武道」を(武士道の意味ではなく)ちゃんと武術の意味合いで用いています。 確かに江戸期は現在で言う所の道場を主に「稽古場」や「演武場」と呼んでいました。ただ仏教等における「道場」の言葉も古い伝統がありますし、必ずしも「道場」の言葉を用いていなかったとは考えにくいでしょう。だから時代劇で、「これから道場へゆく云々」の言葉があったとしても絶対不可という程ではないと我は考えます。
D山田本では、刀の下緒を概ね飾り結びで図説しているが、下緒を飾り結びするのは幕末における極一時期のみである。
E山田本の大小の差し方の説明も可笑しい。脇差を着物と帯の間に、大刀を帯と帯の間にと解説している。 刀をの差し方は比較的人の自由であり、この様なやり方もやってもよいと思うが、脇差も帯と帯との間に差すのが普通である。但し脇差と大刀の差す層を違え、直接鞘が触れない様に差す。そして普通は脇差の方が外側の層に差す。尤も流儀によっては大刀を外側にすると教える武術流儀の作法もある。これは大刀の鞘の自由度を増すためである。
F剣術の事を次の様に解説しています。 「剣術の稽古で使う竹刀ですが、柳生新陰流では江戸時代初期から竹刀に袋を被せた『袋竹刀』を使っていましたが、ほかの流派は江戸時代中期までは防具なしで、木刀か本物の刀の刃を潰して斬れなくした刃引刀でした。」 色々突っ込み所満載です。 先ず柳生新陰流と言うの俗称であり、新陰流が正称であるだけではなく、またこれでは柳生家以外の新陰流を含まなくなります。疋田系の新陰流もあるのであり、袋撓を発明したと言われるのは元祖上泉伊勢守であり、柳生で区切るのは可笑しい。 「江戸時代初期から」ではなく、上泉伊勢守は永禄年間に既に伝書を残しており、この時期には既に流儀が成立しています。当時既に袋撓を用いていた事は記録に残っています。 「竹刀に袋を被せた」……妙な謂です。竹の先を割ったものに皮袋を被せたものです。普通は「袋竹刀」とは表現せず、「袋撓」と書きます。 「ほかの流派は江戸時代中期まで防具なしで、木刀か本物の刀の刃を潰して斬れなくした刃引刀でした。」 新陰流の袋撓は独得で、その独特の部分を元祖伊勢守が工夫したので、(新陰流の)袋撓の発明者とされるのですが、竹刀、袋撓はより古い伝統があり、新陰流式のものよりやや硬いが、割った竹を詰めて皮袋に包んだ独特の袋撓が各流で用いられた。これは記録の残る紛れもない事実である。 防具なしでと言う謂も曖昧であるが、戦国期、そして江戸初期の段階においても鬼小手や竹胴、面的な様々な稽古用の防具が作られた、使用された事が記録にある。 色々細かい指摘をしているが、ここまでは胡乱で不正確すぎると言うものの、概ねの正しさはないとはいえないが次の解説はかなりぶっ飛んでいます。 「(道具が木刀や刃引刀であるので)、そのため試合はももちろん、稽古でも本気で打たれれば、骨が折れたり切れたりして死ぬことも多かったのです。」 試合と稽古を混同して意味不明の解説。そんな危ない稽古など出来ません。 続けて、 「それを防ぐため形稽古といって、対戦者が打つ側と受ける側に分かれて決まった手順に従って木刀を打ち合い、お互いの体には刀を当てないと言う稽古をしました。」 ここまでの解説で何とか筋は通ってきました。しかし山田女史は続けて次の様な暴論を述べています。 「しかし時には間違って当たることもあり、危険きわまりないものでした。」 エッ、我も長年形稽古を続けていますが、今までやってきた事が危険極まりない事であったとは知らなかった……。 そして山田女史は次の様に続けます。 「そこで江戸時代中期にあると、現在使っているような竹刀と面・籠手・胴が発明され、お互いの体を防具の上から打つ稽古が出来るようになったのです。」 防具竹刀稽古が盛んになっていったのは事実ですが、形稽古が危険極まりない方法であった為とは流石に仰天。 中々ユニークな理由付けであり、武術に対する素人さんは本当に突飛な発想をするものだと感心します。 ただ竹刀防具稽古法は実際的にはそれほど安全ではありません。籠手は痣だらけになりますし、脳震盪はざらであり、死ぬこともあり、竹刀のカケラが目に入って失明したり、アキレス腱を切ったり、そして難聴になりやすいのは防具稽古の大きな問題であり割合根源的な危険性であります。 ついでにいえば現在の様な竹刀は江戸後期になってやっと現れ、それまでは古典的な袋撓を用いています。これは『北斎漫画』などにも描かれている所です。
G次に山田女史の考証で、いま一つ不思議なのは江戸初期における室内稽古を否定し、家光の道場稽古を間違いとしている事です。 確かに野外稽古は多くなされましたが、江戸初期は既に正座などを多用する柔術系技も大いに現れていましたし、戦国末期から江戸初期において室内稽古を否定する事は如何なものかと考えます。新陰流などで用いられる独特の足捌きは能なのと共通するもので、野外稽古で醸成したとは考えにくいものです。
H山田順子女史本では鞘遣いを否定的に書いている。本来は脆弱な造りであり、鞘で刀を受けたり払ったり、鐺で人を突いたりすれば忽ち破損すると言う論。一つの論としては尊重するが、身を守る為には鞘の損傷などいってられない事がある。中の刀も痛むと言うのもその通りであるが、そこまでいえば刀で刀も受けられない。必ず受け傷が出来、名刀ならばかなり勿体ない。しかし日本刀はやはり武器であり、多少の傷を作っても身を守るのが本来の用途である。 現代は古典武術が殆ど壊滅したしまった時代であるが、極近年まで伝承していた仙台伊達藩の影山流には様々な鞘遣いの傳が残っており、様々に鞘を用いて身を守る方法論を教えている。柳生心眼流でも様々な鞘遣いの技法傳が伝わっている。 故に心ある武士は鞘の縁まで金具を渡したり、また鮫皮を巻いたりして頑丈に作ったと言われる。 坂本竜馬が寺田屋で襲われた時、刀を抜く間がなく、鞘ごと用いて刀を受けたと言われ、その受け傷が残っている事は著名である。 また刀の刃を受けると確かに鞘は破損するが、槍に対する鞘での払いを伝える流儀もある。これは昔の武術伝書にその様な遣い方の絵図が残っており間違いないだろう。
I『日本の剣術U』と言うカラー写真による古流剣術解説本が学研からでているのでみると面白い事が沢山書いてある。 「袴の下の下帯に刀を差して」 あの、下帯と言うのは普通の日本語として、「褌」の事を言うんですけど。無理して、「下の帯」と解釈すれば必ずしも間違いではないですが、でも「角帯」と言う言葉を知らないのでしょうか。
J『武道の科学』高橋華王著ですが、次の解説がありました。 「心ある武士は戦の前に自らの刀の刃引きをして臨んだ」 あの、戦に刃引きをしては拙いのでは。「寢刃合わせ」の事でしょうか。
K山田順子女史本で「幕末期には剣術流儀は八百に達した」とある。 どうして数えたんでしょうか。日本古流武術の数は余りにも大小様々存在し、概数を把握する事も難しく、正に無数にあったとしかいえない。武芸流派大事典では万余の流儀が実際に名を残しているし、その中で、剣術だけに限っても八百はとうに超えているだろう。そして問題は流儀事典にも掲載されていないマイナー流儀がまた無数にあった事である。この様な解説は無責任であり、出典を上げ、何々の書が存在を把握し、流名記載のあるものだけでも○○流存在する……と言うような解説にすべきである。
[21年8月10日記]
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