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似非保守論説の歪みを糾す チャンネル桜の問題番組を考える
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「日本軍の武士道」

【自由主義史観研究会】海の武士道−敵兵を救助せよ[桜 H21/7/29]

http://www.youtube.com/watch?v=XjOLUCUyZZ0


この番組の問題点は……ではなく、この放送は非常によい放送であり、点数をつければほぼ満点に近い。皆にも何度でも見て頂きたいが、ただこの番組を取り上げたのは他に主張があるからである。
この番組の話しは昭和十七年に日本海軍が英国敗残兵を海難から自己の危険も省みずして、救い、ゲストしてもてなしたと言う事。正にゲストであり、本来なら捕虜である英国兵にビールまで振る舞っているのである!
何十時間も海面に漂流し、死を覚悟したあと、意外にも敵兵に救助され、ビールを振るわれたのであり、正に最高の味だったろう。以後六十五年経っても忘れる事が出来なかったと言うのも無理はないと思う。(※ 当時のビールは戎麦酒か? 多分モルツであり、そのコクの美味さは現在の発泡酒の比ではない。田村氏の褒める「麦とホップ」はある程度美味いとは思うが、しかしやはりコクが足りないと思う)
これは日本の武士道の一つの結晶ともいえる本当に素晴らしい逸話、最高の美談である。しかもそれは日本側からでた話しではなく、救われた英国人の体験談が原典となっているのであり、これは正に疑いようのない真実そのものであるといえる。
この様な話しは本当に良いと思う……が、しかし南京陥落時の日本軍はどうであったかと言う事を少し問題にしたいのである。
我は「南京事件」問題において、一応南京大虐殺否定派の立場である。一般市民を虐殺したり、南京の女性を集団で強姦した上に虐殺したとか、全くとんでもない事である。
しかし問題が全くなかったとも必ずしも思えない。やはり最大の論点は捕虜の比較的多数の集団処刑だろう。
昭和十七年の海戦では敗残兵を救助し、昭和十三年の南京では何故にかくも多くの捕虜を処刑したのか。何故に両者の差異が生じたのか? この点が不思議であり、ここを少し考えてみたい。

1、先ず本当に処刑したかと言う事であるが、色々な史料から間違いないことの様である。残念ながら我は南京専門研究者ではなく、それほど多くの文献を読み込み、史料批判をして、真実を見つけると言う様な作業までは出来ない。ただ中村粲教授も認め、水島社長も認め、東中野教授も小林本も認め、つまり虐殺否定派の面々が殆ど認めており、そして肯定派は言わずもがなであるから、これは真実と断定して良いだろう。

2、次にその処刑人数であるが、色々な文献を鑑みると万余、二、三万人くらいまでと言う感じを持つ。決して少ない数ではないとは思うのである。

3、これが国際法に触れるかどうかであるが、微妙であり、我には判定できない。そもそも国際法など日本軍以外にもボコボコ破られまくっており、どれほど権威があるのかも疑問に感じられる。故にこんなことは対して重要な事ではないと我は判定するし、それよりもこの様な行為が武士道と照らし合わせてどうであったか言う事を考えて見なければ成らないと考える。

4、次に何故にこの様な大量の捕虜処刑を行ったかと言う事であるが、これが實はよく分からないのである。我の勉強不足と言う感も強いが、この辺否定派も少し言及を避けている様な感じがあり、また肯定派は単に残虐を言い募るばかりが多く、その根本原因への追求が余りない。
取り敢えず考えられる事は収容施設の欠如、食料の補給の問題であるが、この点、色々手を尽くした上、時間の経過も鑑み、或いは餓死者までがでたその果ての処置と言う様な話しではなく、問題は比較的早い時期に既に処刑してしまっている事が疑問である。

5、食料よりも問題は収容施設の問題だろうか。勿論大量を捕虜を収容する牢屋みたいなものはかなり用意するのは難しい。しかし南京城に戦闘勝者としては入っているのであるから色々な建物を探して何とか収容の道を考えるべきである。
いや、勿論それら総てを手を尽くし、しかしそれでは反乱分子を抑える事がどうしても出来なくて、やむにやまれずやったと言う可能性もないとはいえない。しかしないとはいえないと言うその現場の声をいま少し聴きたいとは思うのである。実際に反乱されたと言うような具体例があれば耳を傾けたいと思うのだ、そこまでの研究と史料の提供は未だ否定派と雖もそれほどなされていないように感じられる。

6、いま少し疑問に思うのは敗残兵と便衣兵のより分け、また反乱分子の選別をどの程度したかと言う事である。捕虜処刑の大量さを考えるとそれほどのより分けはなされていない様に感じられる。

7、また捕虜の扱いは部隊によってかなり違ったとも言う。つまり捕虜にして武器を取り上げたあとは降伏を認めさせ、反攻しない事を誓わせた上で故郷に帰させたと言う話しもある。逆に有無を言わせず大量処刑した部隊もあった様であり、この様な各部隊の処置の差異の有り様は一国の軍隊としてはかなり問題であるように感じられる。

8、銃殺ではなく、斬首処刑があったかどうか。これも証拠文献が不詳で実態はよく分かっていない。絶対証拠はないようであるが、状況証拠的にはある程度なされたのではないかと考えられる。
この点を考えてみよう。
@日本軍は日本の歴史の中でも古典武器ともいえる日本刀を多くが携帯していた。単なる指揮道具ではなく、やはり実戦にも用いたのだろう。つまり捕虜処刑にも使用可能な道具が身近にあったと言う事。
A次には日本刀での斬首が日本の伝統であったと言うこと。
B日本刀を実戦に生かすために戸山学校などで実技が行われていたが、ここでは古典剣術と言うより試し斬り法がかなり研究されたと言う事実がある。古典武術と言うよりレジャー的なその様な技術がかなり行われた。
C古典武術であるならば、その背後にある精神性もたたき込まれるが、残念ながらこの様な古典武術まで修めた武術家は当時においても極めて僅少になってしまっていた。
つまり当時においても日本の武術は維新以降の政策で極端に劣化してしまっていた事を注意しなければならない(そして占領期を経て殆ど総ての古典武術は壊滅してしまったが、この点はまた別の話し)。
D罪人の死体を斬って切れ味を試すと言うやり方が日本に伝統的にあった。
9、斬首刑が行われたから残虐と言う事ではない。銃殺であろうと大量処刑した事が問題であり、その理由を探求してゆく必要があると考える。
一つ考えられる事は日本人、日本軍の劣化である。司馬史観が必ずしも正しいとは我も思っていないが、明治、大正、昭和にかけて古典武術が徐々に廃れ、昭和の期は日本武術は慘めな程既に劣化しており、その背後にある武士道の規範もかなりないがしろになっていたと考えられる。それがこの様な捕虜大量処刑に繋がったのではないかと言う風にも観察できる。勿論これは仮説であり、南京陥落時の捕虜大量処刑の理由は別の所にあったのかも知れず、この点はこれからも探求してゆきたいと考えている。

 

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